風のローレライ
第2楽章 風の濁流
3 クラスメイト
次の日、わたしはマー坊より先に家を出た。おばあさんは、今夜もおいでと言ってくれたけど、もう、ここへは戻らない。感謝はしてるけど、迷惑をかけるのはいやだ。
学校に着くと、わたしは下駄箱に置いてあった体操服を鞄に入れて教室に行った。
それから、机の中の教科書もいくつか鞄に入れた。
西崎達がこっちを見てたけど、何も言っては来なかった。
彼女達は昨日、裕也のお見舞いに行った時のことを話していた。それから、「プリドラ」の新曲のこと。
「裕也が、夏にはライブをするんですって……。それでミニアルバムを出したいって言ってたから、お父様に頼んで資金を援助してもらうことにしたの」
西崎が得意そうに言う。
「それでね、今回は女の子に歌って欲しい曲があるみたいなの」
そこで彼女は、ちらっとわたしの方を見た。
「裕也はもう決めてるって言ってたんだけど、ボーカルって大事ですもの。きちんとオーディションをやって決めた方がいいと思うのよ」
「その通りよ」
みんなが西崎の意見に賛成した。
「そうしたら、もちろんわたしも参加するつもり。審査は公平にやっていただかないとね」
西崎はもっともらしく言って周りを見渡した。
「それなら、そのボーカルは忍様に決定ね」
「小さい時からずっと、歌もダンスもプロの先生に付いて習っているんだもの」
女の子達が言った。へえ。そうなんだ。だったら、はじめから彼女にボーカルやってもらったらいいのに……。もともと、彼女はリッキーの知り合いみたいだし……。わたしは何となくおもしろくなかった。
でも、話はそれだけで、わたしに直接何か言って来ることはなかった。だけど……。
昼休み。わたしは突然、先生に呼ばれた。そして、職員室の端っこにあるソファーに案内された。そこにはお母さんが来ていて、いきなり殴られた。
「このバカ娘がっ! どこまで性根が腐ってるんだい?」
そこには他の先生もいたけど、誰も止めてはくれなかった。担任の吉野先生もただ困った顔をして、わたしを見てた。どうして……? 先生が持っているのは袋に入ったままの新しい体操服。先生はそれをテーブルに置いてわたしを見た。それってわたしの……? 朝、教室のロッカーに入れたはずなのに……。
「まったくなんて子だい? 夜は遊び歩いて帰って来ないは、盗みはやるは……。いきなり学校に呼び出されて、母さんは顔から火が出るほど恥ずかしい想いをしてるんだよ!」
「盗み? それってどういう……」
わたしにはさっぱり意味がわからなかった。
「ほんとに困ったことをしてくれたね。新学期が始まって間もないというのに……。体操服を万引きするなんて……」
担任が言った。
「やってません!」
わたしは言った。担任は深いため息をつき、お母さんはそっぽを向いた。
なぜそんなことを言われなくちゃいけないんだよ? どうしてみんな、わたしをそんな目で見るの? 灰色の空気がよどんでいる。ただ四角いだけの事務机が並んで、そこにいる人達の目はみんな冷たい。誰もわたしのことなんか気にかけてくれなかった。冷めた空気だけがそこにあった。
「しかしね、現に目撃したと言う人がいるんだ」
「目撃?」
いったい誰がそんなことを言ったっていうんだろう? わたしは先生に詰め寄った。けど、告げ口した奴の名前までは教えてくれなかった。
「盗ってません! わたしは、ちゃんとお金を払って買ったんです!」
必死にそう言ったけど、信じてもらえなかった。
「何、バカ言ってんだい! 金なんか渡しちゃいないだろうに……。それとも何かい? その金をどこかから盗んで来たとでも言うんなら話は別だけどね」
「もらったんだよ!」
「誰に?」
「女の人」
「でたらめ言うんじゃないよ!」
母親が言った。
「でたらめなんかじゃない! ほんとだよ! 引ったくられたバッグを、わたしが取り返してあげたの! そのお礼に5千円もらったんだ。本当だよ」
「ふん。誰がバッグ取り戻してやったくらいで5千円もお礼するもんかい。おまえがその引ったくり犯じゃないのかい?」
「ひどい……!」
あまりのことに涙がにじんだ。嘘じゃないのに……! みんな、本当のことなのに……。誰も信じてくれなかった。お母さんも、先生達もみんな……。
どうして……?
心の中で闇の風が吹き荒れていた。もう、誰の声も聞こえない。まるで、冷たいプールの底にいるみたいに……。大人達の声がわーんと遠くで反響している。
どうして、こんなことになったんだろう。誰がこんな嘘を告げ口した?
わたしの頭に、西崎の顔が浮かんだ。そういえば、今朝は何も言って来なかった。どこか意味あり気ににやにやしてただけで……。それは、こういうことだったのか。許せない! わたしがそう思った時、先生が近づいて来て言った。
「桑原さん、とにかく君は一度お母さんといっしょに家に帰りなさい。君の処分については、これから職員会議で決定するから……」
「処分?」
冗談じゃない! わたしは何も悪いことなんかしていないのに……! そう言おうとして口をつぐんだ。
本当に悪いことなんか何もしていない……?
そうよ。わたしは、盗みなんかしていない。でも……。
わたしは人を殺した……。
熊井達を風の力で消してしまった……!
それはたぶん、とても悪いこと。
でも、それはあいつらが先に、裕也やわたしに手を出したりしたからだ。
わたしは悪くない!
悪くないのに……。でも……。
わたしは何も言えなくなった。
わたしは……。
そうだ。平河。あの5千円をもらったことは彼が知ってる。平河が証言してくれたら……。でも……。だめだよ。あいつに迷惑なんて掛けられない。じゃあ、どうしたら……?
「ところで、あんた鞄はどこから盗って来たんだい?」
お母さんが訊いた。
「もらった」
「誰に?」
担任が神経質そうな顔をして訊いた。
「マー坊のおばあさん」
「マー坊って?」
先生がしつこく訊く。
「それは……」
迷惑はかけたくなかったけど、本当のことだから、わたしは正直に答えた。
「上級生の鈴木正敏って奴のおばあさんにです」
鈴木という名字は表札に出ていたので覚えていた。
「鈴木……ね。ちょっと待ってて」
そう言うと、吉野先生は席を立った。
待っている間、お母さんはソファーにどっかと腰を下ろし、タバコを吹かしていた。
派手な柄の服にブランドのバッグ。濃いメイクをして、これ以上ないほどのアクセサリーをジャラジャラ揺らしている。その指輪の1個で制服も鞄もみんな買えるってのに……。お母さんはわたしの物なんか一つも買ってくれない。
この人はわたしのことが嫌い。
何かある度、産まなきゃよかったって言うんだ。
だから、何もしてくれない。
わたしが子どもで、お金を稼げないから……。
大人は働いているから偉いんだって言う。
だから、高い服を着たり、おしゃれしたりもするし、おいしい物だって食べれるんだって……。大人は子どもを食べさせてやってるんだから、がまんしろって言う。
でも、大人って、そんなに偉いの?
そう訊いたら殴られた。
殴る大人は偉いの?
わたしにはわからない。
だって、他の多くの大人達は……。
「ところで、アキラ。その制服をどこで手に入れた? なかなかうまくやったじゃないか」
ふーっと煙を吐き掛けて、お母さんが訊いた。
「もらったんだよ。卒業生の人に……」
わたしはぶっきらぼうに答えた。母親は真っ赤な口紅を塗った口から歯をのぞかせて笑う。
「やればできるんじゃないか。その調子で、必要なもんはどんどん稼いでおいで」
香水とタバコのにおいがきつい。
「他にもあるよ。必要な物。体育館シューズとか、長袖と長ズボンの体操服とか……いっぱい……」
「何だ。そんな物、また店からちょろまかして来ればいいじゃないか」
「どうしてそんなこと言うの? わたしはやってないって言ったでしょ!」
ここは先生達の机からは少し離れていたけど、端っこの机のところにいた先生には聞こえちゃったんじゃないかな? こっちを見て、いやそうな顔してたもん。
「だったら、おまえの親切なおばあさんにねだったらどうだい? 近頃の年寄りは金持ってるそうだからね。いい金づるになるんじゃないのかい? 何だったら、こっちにも紹介おしよ」
母親が接近したので、煙がまともに顔にかかった。思わずむせそうになったけど、わたしはキッとその顔を睨んで言った。
「できないよ! そんなこと……」
できる訳ないじゃない。
「おまえがいくらいやがったって、名前さえわかってれば、すぐに当たりがつくさ」
「やめてよ! あのおばあさんには関係のないことなんだから……」
ほんと、サイテー! どうしてこんな女がわたしの親なの? この女の周りから、すべての闇を消し去りたかった。でも、そこに闇はなかった。そんなことってあるの? 闇でないなら、こいつは何なの? いやだ! 世の中にこんな人間がいるなんて……。それが自分の母親だなんて……。
世の中で起きてる悪いことは、みんな闇の風のせいだと思っていた。
でも、そうでない場合もある。じゃあ、闇の風って、いったい何なの?
その時、吉野先生が戻って来た。
「ああ、事情はわかったから、君はもう教室に戻りなさい」
「でも……」
わたしは、思わず先生の顔を見た。
「鈴木さんのご配慮で、靴や制服を用意してもらったんだそうだね」
「はい」
じゃあ、話が通じたんだ。
「それならそうと早く言ってくれればよかったんだよ。体操服や上履きも鈴木さんに買ってもらったそうじゃないか」
「えっ? おばあさんがそう言ったんですか?」
なぜ、彼女がそう言ったのか、わたしにはよくわからなかった。でも、先生はにこにことわたしの肩に手を置いてうなずいた。
「ああ、そうだよ。君のことが孫のようにかわいく思えたからとおっしゃってね」
彼女のやさしさが、ひどくうれしかった。でも……。
「すみません、先生。その鈴木さんって方の連絡先を教えてもらえませんかね? ぜひ、お礼を言いたいものですから……」
お母さんがしゃしゃり出て言った。だめだよ! この女に教えたりしたら……。先生はメモ用紙を取って来ると言って机の方に行こうとした。わたしは慌てて先生を止めた。
「大丈夫です! お母さんにはわたしから伝えます。わたし、知ってますから……」
「ああ、そうだね。じゃあ、君から伝えてあげて」
先生がそう言ったので、わたしはほっとした。母親が舌打ちしたのが聞こえたけどかまわない。
「今回は、お呼び立てしてしまって申し訳ありませんでした」
先生はそう言うと、母親を職員室の外へ送り出した。まるで厄介者を追い払うように……。
「アキラ、今夜は家に帰って来るんだろうね?」
昇降口のところで、お母さんが訊いた。
「あんたが逃げ出したりするから、あの人がひどく怒ってたよ。ただ飯食らいの分際のくせにってね」
「食べてない!」
わたしは言った。
「わたし、あいつから食べさせてもらったことなんか1度もないもん! それに、帰ったらまたどうせ、わたしを縛ってぶつんでしょう? わたしはいやだ! あんな家にはもう戻らない!」
「バカなこと言ってんじゃないよ! 何か問題が起きる度、こっちに連絡が来るんだよ!」
「いやだよ! 誰があんなとこに帰るもんか!」
わたしは、急いでバカ親から離れて教室に飛び込んだ。でも、そこには誰もいなかった。ううん。ただ一人の少女を除いては……。彼女はゆっくりと振り向いて言った。
「みんなはもう校庭に行ってしまったわよ」
「岩見沢さん……?」
その子は同じ小学校の出身だった。いつも本ばかり読んでるから、あまり話したことはなかったけど……。
「あなたは行かなくていいの?」
彼女が言った。机の上には読み掛けの本があって、彼女の白い手が添えられていた。そういえば、次の時間は体育だった。
「はじめっから授業なの? どの教科も最初は教室で自己紹介するのかと思ってた」
わたしが言うと、その子はさみしそうに微笑して言った。
「わたしもそう思ってたんだけど……。自己紹介の代わりにレクリエーションと運動能力テストをするって……。わたしは、心臓が悪くて、医者から運動止められているから……」
「そうだったんだ」
彼女とはクラスが違っていたから、そんなことぜんぜん知らなかった。
「だからいつも、本ばかり読んでるんだね。それ、何の本?」
「ハイネだよ」
彼女は本を掲げて見せた。タイトルと作者名だけが書かれたシンプルな表紙だった。
「桑原さんは行かなくていいの?」
「うん。いいんだ。ここにいるよ」
運動靴なんか持っていなかった。革靴で出たら叱られそうだったし、先生は帰れなんて言ってたくらいだから、別にかまわないと思った。
「桑原さんはどんな本が好き?」
岩見沢さんが訊いた。
「どんな本って言われても……」
わたしは返事に困った。本なんかろくに読んだことなかったし、親は勉強するより金稼げって主義だったから……。別に本が嫌いな訳じゃなかったけど……。よくわからないってのが本当のところだった。
「わたしはね、ロマンティックな恋のお話が好き! 特に悲しい愛の物語が……」
彼女が言った。
「その本も、そういう話なの?」
「これは詩集だから……。でも、有名な『ローレライ』の詩も入ってるよ」
「それって歌でしょ?」
「うん。でも、もとはハイネの詩に曲を付けたものなんだよ。さらに言えば、もともとブレンターノって人が書いた小説に出ていたエピソードの一つだったんだって……」
「小説? じゃあ、誰かが作ったものなんだ。ずっと昔からある伝説だと思ってた」
「うん。伝説はあるよ。ウンディーネって水の妖精のモチーフとか……。それらを融合してできたのかもしれない」
「へえ。岩見沢さんって物知りなんだね」
「そんなことないよ」
そう言って伏せたまつ毛に暗い影がよどむ。それってまさか……。
美しい少女の歌声は、船頭を惑わし、船を沈める。
冷たいライン川の水底に……。
「かわいそう……」
彼女が言った。
「でもね、わたしにはわかるの。ローレライの気持ちが……。わたしにも好きな人がいるの。それは、わたしの主治医の先生。彼はわたしよりもずっと年上で、もちろん奥さんだっている。とても両想いになんかなれないけど……。あきらめきれない。いくら他の人を好きになろうとしても……。だから歌うの。繰り返し……」
「岩見沢さん……」
「ごめんね。急に変なこと言って……。わたしっておかしいのかな?」
「ううん。おかしくなんかないよ。きっとね。誰かを好きになれるってステキなことだと思うよ。それがどんな相手だったとしても、その人のことを1番に思えるってことなんだから……」
「ありがとう。わたし達、友達になれるかな?」
彼女が言った。
「なれるよ」
そうして二人は握手した。白い肌に光が射して、彼女の瞳はかがやいていた。
なぜだろう? その時、わたしは彼女のことを抱きしめたいと思った。
美しい少女の歌声は……。
透き通るような細い声が、教室の空気を、そしてわたしの心をやさしく震わせた。
そして、その少女は、その本のページにそっと栞を挟んだ。
5時間目の授業が終わって、クラスのみんなが教室に戻って来た。西崎とその取り巻きの連中がこっちを見てくすくすと笑っている。
「ちょっと! なんで今、こっち見て笑ったのよ? 言いたいことがあるんなら、はっきり言いいなよ!」
わたしは面と向かって言った。
「あら、何のこと? 別にあなたを見て笑った訳じゃありませんのに……。いやね。被害妄想って……」
「しらばっくれないでよ! あんたが吉野先生に言いつけたんでしょ?」
わたしはどうしても一言文句を言わなきゃ気がすまなかった。
「言い付けた? 何を?」
西崎はしゃあしゃあと言って笑っている。ほんとにいやな女だ。
「わたしが体操服を万引きしたなんてでたらめをだよ!」
「万引き? まあ、いやだ。これだから貧乏人は困るのよ」
彼女はこれ見よがしに甲高い声で笑った。
「言っとくけどね、わたしは万引きなんかしてないし、心もあんたほど貧しくないよ!」
「ふふん。体育はずる休みするのに?」
皮肉を込めて西崎が言う。
「今日は運動靴を忘れたから……」
「まあ。嘘をつくのがお上手ね。ほんとは持っていないんじゃないの? それもどこかのお店から盗って来るつもりなんでしょ?」
バシッ!
わたしはそいつの横っ面を思い切り引っぱたいてやった。
「きゃっ! 何するの? この野蛮人!」
「やめなさいよ! 暴力を振るうなんて……!」
クラス中、大騒ぎになった。
西崎は叩かれた頬を押さえたまま床にへたり込んで泣き喚いた。
「痛い! 痛いわ! この暴力女をどっかにやって!」
そいつの周囲には闇の風が踊っていた。昨日よりも大きな闇が……。でも、わたしは知らない。こんな卑怯者なんか救ってやらない。こんな奴、闇に喰われてしまえばいいんだ!
クラスの連中が、わたしを引き放そうとしていた。中にはそれに紛れて足を蹴ったり、髪の毛を引っ張ったりする奴もいた。
「誰か、先生を呼べ!」
男子が叫んだ。岩見沢さんが心配そうにこっちを見てる。
「わかってる……」
そんなことをすれば不利になるってことは最初からわかっていた。でも、泣き寝入りするなんていや! この学校には闇がある。そこかしこに小さな闇の風がわだかまっている。そして、隙があれば、いつでも不幸を呼び込もうとしている。そんな風の餌食になるのはいやだ! だって、わたしにはそれが見えるんだもの。察知できるのに何も抵抗しないなんておかしいよ。わたしは絶対に呑み込まれたりなんかしない! わたしは……。この手で幸せをつかむんだ。そうでなきゃ、不公平過ぎるよ。生まれた時から運命が決まってしまうなんて……。わたしは認めない!
「騒ぎの発端は何だったんだ?」
先生が来て訊いた。
「桑原さんがいきなり、わたしをぶったんです! 何もしていないのに言い掛かりをつけて……。まるでヤクザみたいに恐ろしかったわ」
オーバーに頬を押さえて西崎が言うと、女子の大半がそうだそうだと加勢した。
「そうなのか?」
顔をしかめた先生がわたしを見て訊いた。
「……叩いたのは本当です。でも……」
わたしは弁解しようとした。でも、先生は言わせてくれなかった。
「よし! わかった。君はいろいろ問題を抱えているようだね。さきほどのこともあるし、今回の件も含めて、放課後の職員会議でよく検討することにするから……」
吉野先生は、わたしの意見なんて、はじめから聞こうとしていなかった。
「先生!」
その時、すっと手を上げて立ち上がったのは岩見沢さんだった。
「悪いのは桑原さんだけじゃありません」
「何だね? 君は暴力を振るう以上に悪いことがあるとでも言うのかね?」
先生はあからさまにいやな顔をした。
「先生! 授業押してます!」
男子が言った。先生もさっきから何度も時計を気にしている。早く終わりにしたいんだ。それでも一応、岩見沢さんに「続けなさい」と合図した。
「西崎さんも彼女にひどいことを言ったんです。本当は運動靴を持っていないから体育をずる休みしたんじゃないかとか、どこかから万引きするつもりだろうとか……。桑原さんが怒ったのも無理ないと思います」
彼女はきっぱりと言った。とたんに、西崎が「言ってませーん!」と言い、女子達がいっせいに、「そうでーす! 言ってませーん!」と声をそろえた。先生は少しの間考えていたみたいだけど、あっさりと結論を出した。
「いくらひどいことを言われたからと言って、人を殴ってもいいなんて理由にはならないよ。桑原には小学校の頃から問題行動があったらしいし、中学に入学したばかりでこれじゃあ、先が思いやられるな。クラスの運営を任されている担任としては本当に頭の痛い問題だ。それに岩見沢、君も体が弱いんだろう? 他人のことなど詮索していないで、勉強が遅れないように自分のことだけ考えなさい」
そう言うと、吉野先生は廊下に出て行った。岩見沢さんは、それを呆然と見つめていた。ありがとうね。けど、世の中なんて、いつもこんなもんだよ。大事なのは、それが本当のことかどうかじゃない。その相手がどれくらい力やお金を持っているかなんだ。お金がない奴は力を手に入れるしかないんだよ。
だから、わたしは力が欲しかった。
そして、わたしはたまたま風の力を手に入れた。でも……。
入れ替わりに英語の先生が入って来た。
英語の自己紹介は最悪だった。その女の先生は西崎のことをほめちぎった。発音がいいとおだてられて、あいつも得意になって言った。
「夏は毎年、アメリカやオーストラリアで過ごしますの。それで、現地の方々とも交流がありますので……」
それを聞いて、みんながうらやましいと言い、先生までそんな言葉を口にした。だから何だって言うのよ! 他にだって発音のきれいな子なら、いっぱいいたじゃん。みんな、西崎におべっか使い過ぎじゃないの?
帰りのホームルームが終わり、わたしが昇降口で靴をはいていると、岩見沢さんが来て言った。
「ごめんね。わたし、桑原さんの役に立てなくて……」
「そんなことないよ。すっごくうれしかった。ほんとのこと言われて西崎の奴、ビクッとしてたもん」
「でも……」
「ひどいのは先生だよ。岩見沢さんにまで、あんなこと言うなんて……」
「それは……仕方ないの。ほんとのことだもん。わたしね、しょっちゅう入院してるから、学校には半分も行ってないの。だから……」
そんなに具合が悪かったなんて知らなかったから、それを言ったことをちょっとだけ後悔した。
「あっ! お母さんが来た」
そう言うと彼女が手を振る。
「早苗!」
向こうから女の人が笑顔でこたえる。
「早苗ちゃんか。かわいい名前だね。わたしもそう呼んでいい?」
「もちろんいいよ。ねえ、わたしは何て呼んだらいい?」
「じゃあ、やっぱりキラちゃんがいいかな?」
「アキラのキラだね。それって、とっても似合ってると思う。キラちゃんって、いっつもかがやいてるように見えるもん」
「そうかな?」
その時、早苗ちゃんのお母さんが来てあいさつした。
「こんにちは。まあ、早苗のお友達?」
「そうよ。お母さん。キラちゃんって言うの」
彼女はうれしそうだった。それに、お母さんも……。
「本当によかった。この子、体が弱いから、なかなかお友達ができなくて……。キラちゃん、どうか仲良くしてやってくださいね」
「はい。わたし達、1番の友達になれそうなんです」
わたしが言うと、二人はとても喜んでくれた。本当にいいお母さんだと思った……。いつも娘をかばうように歩いて、車に乗る時もやさしく手を引いてあげていた。うらやましいな。ああいうのって……。
――あんたなんか産むつもりじゃなかったんだからね!
西の空に黒い雲が流れていた。風は湿気を含んで冷たく感じた。
「雨が降るのかな?」
わたしは急いで校門を出ると歩道をかけた。
急がなきゃ……。でも、どこへ……? 今夜はどこへ雨宿りしたらいいんだろう。
2丁目の交差点の脇に花が置かれていた。また、誰かが死んだんだ。
その交差点では、よく事故が起きる。みんなから魔の交差点と言われていた。でも、わたしは知ってる。それは、みんなあの闇の風のせい……。何度も繰り返す悲劇はほとんどあの風が関係してる。他の人には見えない風を、わたしは見ることができる。場合によってはそれを防ぐことさえできる。でも、まだ完全に使いこなすことはできなかった。
どうしてそれが力を持っているのか。それがどこから生まれて来るのかよくわからない。でも、その力をうまく使えたら……。わたしは何になれるだろう?
信号が点滅するように、わたしの心臓も高く波打っていた。
空はすっかり曇っている。
鞄はひどく重かった。教科書や洋服なんかをぜんぶ詰め込んでいたからだ。
「あーあ。これからどうしよう?」
わたしは取り合えず駅に向かった。あそこなら大型のスーパーがある。お金はないけど、運がよければ何か試食させてもらえるかもしれないし、夜の9時まで開いているから、雨宿りできる。
わたしは急いだ。ぽつりぽつりと雨が降り始めていたからだ。